progressのアニメ感想置き場

某レビューサイトで「progress」で活動していたアニメ好きの感想置き場です。

魔女の宅急便 レビュー

一人の女の子が一人前の魔女になるため、しきたりに従い1年間の修行に出る話です。

スタジオジブリ作品ですので、ほとんどのアニメファンならみたことがあると思う作品です。

この作品は、一人の女の子の一人立ちの一幕を見る。そんな作品であり、テーマを決めずにこの場を書いたほうがいいと感じました。

決断したら行動力が高い、そして父親には甘えん坊であるキキ。生まれた村は、湖に近いのどかな場所。様々な植物が美しく描かれ、魅力的なワンシーンを詰め込んだ村です。
人語を解す猫、ジジとともに、生まれ育った町を出ます。
旅立ちを見送った後のキキの母の涙であったり、キキのために見送りの人を集めてくれる父。木に仕掛けられた鈴。そこに親の人間性を感じ、この始まりのシーンの前にも、家族や村の物語が存在していた事を感じさせてくれます。

旅立ち、空を飛ぶキキ。ジジがいると、どこか孤独感を感じません。
夜の飛行でも、工業都市の臭い匂いの中でも、音楽と相まって楽し気。

話は飛んで、キキ達は海の見える町につき、町の人と村の人の違いを感じ、少しおじけづくも、オソノさんと出会い、この町にしばらくいることを決めます。初めての一人で知らない場所での修行というものの経験があれば、知らない町で落ち込んだ気分での寝た後の朝は、孤独で、どこかソワソワとする感情を感じます。

仕事を含め町で過ごしている時に様々な出会いを体験していくキキ。
他の子を見ておしゃれもしたいと思いつつも我慢したり、絵を描く少女ウルスラに出会ったり、トンボという少年に出会ったり。

老婦人からその孫にニシンのパイを送り届けるストーリー、そしてずぶぬれになって帰ってきて、パーティの場にずぶぬれの自分が似つかわしくないと思って、まだ間に合うかもしれないトンボとのパーティに行かず家に帰ってしまうキキ(老婦人の孫のパーティへ送り届けたときに自分の身なりに思う事もあったのではないでしょうか)。他人を見ておしゃれはしたいと思うキキも、町の子供の冷たさを感じたキキも、全てキキの魔法力喪失につながっていきます。

朝起きたら、風邪をひいていたキキでしたが、この前のシーンで、ジジが猫の声を発しています。この時、ストーリーの展開を知っているので、ジジが人語をしゃべらなくなったのかとドキっとしますが、この時はオソノさん視点でジジの鳴き声を聴いており、まだキキはジジの声がわかるのかもしれません。

風邪が良くなって、ジジに挨拶し、トンボに届け物をして、トンボと空を飛んだあとに意地が悪くなって、帰った後にジジの人語がわからなくなってしまったキキ。

ここで気付きなのですが、ジジの人語がわからないことによって、自分が飛べないかもしれないという事、魔法力の低下に気づいたキキ。
つまり、この1日の中で、キキはジジの言葉がわからなくなるようなことが起きてしまったという事と、ジジの人語は魔法力によるものという事がわかります。
この1日の中でのキーポイントはキキが自分を疑ったことです。
では、なぜキキは飛べなくなってしまったのか?その理由の探索は、クライマックスの飛ぶシーンまでつながっていきます。

ちなみに、不自然なほどオソノさんが、キキの不安定な心が透けて見える発言に対し、悩んだりとかするシーンがないのですが、これはキキの物語であるため、大人を描きすぎる必要がないからなのかなと思っています。
事実、オソノさんとその夫は、キキのためにパンの看板や、トンボ宛に届け物をしてもらう心遣いなどをしており、気遣っていることが伺えます。

さて、キキは何故飛べなくなったのか、答えが見つからないまま、ウルスラのアトリエに遊びに行きます。
そこで、ウルスラが自分も絵を描けなくなる時があるという話があり、自分の絵を描かなくちゃいけないことが分かった時、前よりも絵を描くってことがわかった気がする、と教えてくれたウルスラ
ここで、自分というもの、自己というものが、大きく物語に見えてきます。

ウルスラは、今までの自分の絵は物まねだったと語ります。ウルスラは他人の物まねをしているから、納得できない事を悟ったといいます。
キキに置き換えれば、町にいる村出身の自分に自信がないから他人の目を伺い、自分を見失ったのではないでしょうか。村で生まれ育ったキキの中にある様々な経験に基づくものこそが彼女に生きる自信をつけさせるのかもしれません。
ここで描写的事実として、悩んでいるキキを見るという体験をすることでウルスラは絵の続きを書けるようになったとキキに言っています。自己の体験に基づく物への理解がそこにあるのだと思います。
キキが飛べない理由は、自身を疑ったことによる自信の消失、それは、村で体験してきた魔女としての自信の喪失だったのではないでしょうか。

クライマックスシーンで、キキがデッキブラシで飛ぼうとしたシーンに、キキのらしさが詰まっているのだと思います。冒頭で旅立ちの時、箒にまたがったキキが少し浮いた後に沈んだとき、キキは箒を小突きました。この関係性がキキらしさではないでしょうか。デッキブラシの時も、彼女は「飛べ」と命令するのです。少し作品中の言葉で考えれば、デッキブラシではなく、自らの血、肉体に対て言っているのだと思います(ウルスラの家に泊まりに行った際の血の会話)。そんな風にキキが理解しているわけではなく、デッキブラシに彼女は「ちゃんと飛ばないと燃やしちゃうから」と脅したりと、彼女のらしさが戻ったのが伺えます。

ここで彼女のらしさが取り戻せたという事は、今まで町になじめなかったキキでしたが、ここから彼女は町になじめるようになり、今までのキキとは違うキキなのですが、彼女のらしさを合わせもった、彼女の生まれ育った過程を決して否定せず繋がっている事が見えます。その点に関して私は好きですね。

まとめます。村から修行にでて、町に馴染めなかったキキが町に馴染みつつも、自分らしさを残し染まらなかったその美しさと強さ、そういったキキの成長を見ることのできた作品でした。そこには人としての迷いや悩みがあり決して高く遠くにある美しさではないから、キキに惹かれるのだと思います。
つらいこともあるけれど、私は元気です、この町が好きですというように、町と戦い、好きになり、自分を取り戻し親を安心させる。自立する一人の少女の物語でしたね。

トニカクカワイイ レビュー

 

お久しぶりです。まあなんとも色々ありまして、レビュー活動に復帰することにしました。今回はリハビリみたいなものです。


さて、畑健二郎先生原作の「トニカクカワイイ
かつて私をオタクにした「ハヤテのごとく!」の原作者が創り出した新作。
実は私、ハヤテのごとくを完走しておりません。
と、いうのも、当時の私の環境が変わったことと、
シリアスパートが好きではなかったというか。

そのこともあり私はこの作品にも終わりに向けての伏線張り、シリアスな要素が入っているのかと敬遠があって原作は読んでおりません。

そんな感じで恐る恐る見てみましたが、甘々な日常を見ていくのが、そのうち癒しになりました。
放送スケジュール的な都合もあり、土日に消化しやすいこの作品は追いやすかったです。

ジャンルとしてはラブコメとしてみるのが良く、畑先生がハヤテでも良く入れていたSF要素とシリアスの組み合わせは、あれこれ考える考察要素としては面白いかもしれません。

今作が学園物、もしくは青春物ではなく、成人した大人を主人公にした日常物であることは、ハヤテを見ていた世代が大人になって、その世代が日々の出会いの瞬間を、この作品のワンシーンに重ねてしまうような、そんな狙いがあるかもしれません。

個人的な良ポイントは、恋人、ではなく夫婦という設定と、突然結婚という組み合わせ。
常に時間の共有をしていながら、お互いの 事をよく知らないという不思議な関係を生み出し、「相手の事を知る喜び」を強く感じるように作用しているように感じます。
大枠はラブコメの中にあり、三角関係による恋の駆け引きのような要素をなるべく排除し、ただ一人の相手に向き合うような作品ですね。三角関係の展開のドキドキ、それもいいと思いますが、一人のパートナーとの時間を堪能する一途なラブコメに、私は心が癒されました。

一人のパートナーの事を考えて、尽くす、報われる、この成功体験のサイクルの過程に、相手を知る喜びが、お互いに発生し、それがまた、二人の関係を深めていく要素になっていると感じました。

メイドインアビス 感想

メイドインアビス 

探窟家とロボット アビス製

ファンタジー物よりは青春系の作品が好きな私ですが、たまにはこういう作品の感想も書いてみたいと思い、頑張ってみます。

◆神秘的な穴を中心に描かれる人間模様
この作品を語るにあたり、多くの方がその世界観の魅力を語っています。

アビスと呼ばれる、孤島にある大穴。その大穴は底が知れず、生きている動植物は独自の進化を遂げ、時に美しく、時に人に牙を向く。その神秘的な風景や丁寧に描写され説明される生物達に、未知への冒険に対する夢や好奇心を感じるまでに作り込まれています。

探窟家達はアビスに潜り、遺物と呼ばれる超科学な力を持つ宝を持ち帰ってくる。アビスを調べる事、遺物を持ち帰ること。探窟家には色々な目的があるかも知れないが、そこには人間の飽くなき探究心が集まっています。視聴者にも、アビスへの探究心が芽生え、もっとアビスの世界が知りたいと思わせる、それがこの作品の魅力です。

◆リコとレグ、そして二人を取り巻く大人たち

リコはアビスに潜ったままの行方不明の母親に会いに行くため、アビスヘ潜ります。同時に、母親のような立派な白笛(優秀な探窟家)になることも夢見ています。
ここで、リコの心理的成長については、今回、あまり語られることはありませんでした。むしろ、リコの生い立ち、リコの母親、リコの知識的な成長などといった事が多かった。
リコの目的への決意は堅く、無邪気で負けん気の強い性格により迷いのない姿は、確かにあどけなさの塊、子供だ。目的に対する明るさや、その向こう見ずなところが、作品の物語一話一話にポジティブな方向性をあたえています。ここで、
リコはいわゆる物語の起点であり、提案者であり、他人を巻き込むタイプ。他人にイベントを提供して、他人がそれによって成長するための役割なのだとおもいます。

ではそのリコに巻き込まれやすいレグは一体どのような人物?彼はアビスでリコが拾った遺物であり、機械仕掛けのロボット。
彼の腕にはビーム兵器が搭載されているのだが、彼の製造目的が気になるところ。少年兵型ロボットなのか、それとも護衛用、防御用として持たせたのか…いずれにせよ、知能のあるロボットにあんな高火力の兵器を持たせるとは普通の目的ではないと思っています。
話がそれましたが、レグはリコを守ろうと責任感が強い。また、ナナチとミーティアとの話では、辛い選択で苦しんだりと、優しい一面もある。
成長した部分は、リコの危機においてレグ自身の無力さを自覚する一件以来、リコを守らねばという思いがより強くなった感じがしますね。リコがいつも危機的状況になった時に、一人では助けられない状況になり、そのたびに強くなろうと決意していきます。

さて、リコ達を取り巻く人々の様々な人間模様も魅力となっています。母親の関係者であったり、リコがいた孤児院の仲間達のその後であったり、新しい仲間のナナチであったりなど、とにかくレグリコ以外の登場人物の描写が多い。ナレーションやサブキャラクターの描写から、世界観、レグの過去への伏線、目的となる謎多き母親との繋がりなどを描く。母親から続く冒険譚というストーリーに連続性をもたせ、探究心をくすぐる要素が含まれていて、続きを楽しみにさせる要素はここ(第三者視点)が強いと感じました。

◆世界観描写に重心を置き好奇心をくすぐった作品

個人的にはリコレグの当事者視点のみであったほうが作品の主人公としての成長や感情の機微ももっと描かれたと思いますが、ナレーションやサブキャラクターによる第三者の視点も含め世界観の描写をすることでより世界観を深め、またリコレグの過去、未来すらもそうやって謎をばら撒くことで好奇心をくすぐる事に大きく成功しているかなと思います。

アニメーションで冒険的なワクワクをしたい!という方にとってはオススメですね。 アビスの世界観を細やかに、そしてそれを中心として描いているので、映像から感じる作り込みのクオリティを高く感じることができるかもしれません。

 

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さて、最近劇場版が公開されているため、この感想を移そうかなと思いいたりました。

この時はかなり感想のタイトル、項目をしっかりつけていましたね。

項目をつけるのは良いですが、タイトルに関しては、誰かの目を引く力があるので、最近書いていないんですよね。

目を引かずにひっそりと感想を書くことを続けたい、今はそういう気の持ち方で書いています。 

私の原点

「私がアニメ感想文を書くことにハマった理由」について、書いていきたいと思います。

 

まず、元々はアニメレビューサイトで活動していましたので、「レビュー」と「感想」がごっちゃになっている時があります。

 

私個人としては、「レビュー」は批評を加えないといけない、つまり過去の作品と比較し、良し悪しであったりを評価せねばいけない、評価点となる目線をつけなければいけない、批評という言葉の意味に囚われてしまう恐れが書き手にも読み手にもあったため、そこを気にして書いている節はあります。

 

一方、「感想」という形態をとれば、過去の作品と比較する必要というのは必ずしもなく、私という閉じた世界での評価なわけですから、気楽でいいと。しかも感想文というのは、どういう形をとって誰かに見せねばいけないというわけではないので、自由であると。そういう意味で、自由な感想文とすることで自由に書き、モチベーションを保てる。なので、私は少しでも批評ではなく感想だと言い、ここではモチベに対するリスクを減らしたいわけです。

 

 

元々感想文を書こうとした理由としては、「氷菓」について、作品に衝撃を受けた、という事ですかね。それを誰かに伝えたいという想いがあり、感想文をネットに書き始めました。

あの感想には書いていないですが、今思うと、「日常の謎」というジャンルの面白さに惹かれたんだと思います。おそらく「日常の謎」の面白さを語ることで私の原点を探ることはできると思うんですが、その魅力については、また別の機会に。

その後6~7年くらいは書き続けているわけですが、私の文章が上手くなっているかは正直分かりません。

数年前の自分の感想を見ると、なんか視野が狭いな、なんて感じるんですが、今よりも反応を頂いていた気がします。反応が頂きやすい文章とは何か、というのもいろいろ考えていたりするんですがそれも別の機会にしましょう。

 

さて、その6年くらいの間書き続けることが出来た理由、ハマった訳とは。

明確な理由はないのですが、やはり目標とする文章があったという事ですね。

それも一つではなく、紹介記事のような魅力を伝える文、詩のような自分の感情を素敵に見せる文など、憧れた文は様々です。

まあ今も様々な文章を憧れてはいるんですが、最終的にそれに完璧なることはできるはずもなく、様々な良い所を自分なりに取り入れて、最終的に書けた物を自分の個性とするしかないと思っているので、ある種囚われずに書いてます。囚われると、モチベーションが下がりますからね。仕事にはしないほうがいいだろうと。(仕事の文章に憧れたこともあるわけですが)

そんなわけで、今回は私がアニメ感想文にハマった理由でした。

 

ランウェイで笑って  感想

文章を書くにあたって、自分の感情をコントロールするのは重要ですよね。

この前の推し武道の感想なんかは、感情のコントロールがうまくできず、文章整理が出来ていなかったのですが・・・

しかし、私の目標とする文章は、その作品を見た人が感じた気持ちを共有することのできる文章、またはその感情を整理された言葉に変換した文章であるので、どうしても自分の作品に対する感情と向き合うことは、大切なことだと思うのです。

 

今回の感想は、感情は「面白い」という単純な言葉を使って当てはめて、冷静さを保っているんですけど、何が面白いのか?という事を述べています。

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身長158cmの藤戸千雪の夢は、パリコレモデル。
モデルとして致命的な低身長を理由に、
周囲は「諦めろ」と言うが、それでも折れない。
そんなとき、家族を養うために
ファッションデザイナーの夢を諦めようとする都村育人に出会う。

――これは一途に夢を追って走り続ける、2人の物語。(公式サイトより引用)


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少年漫画のような熱さがある作品ですよね。
環境や身体的なハンデを負いながらも、ファッション業界の高みを目指し昇っていく少年少女達。

ハンデを持っている主人公たちが、仕事において相手にされなかったりと、心が折れそうになるところを、それを跳ね返すメンタリティと隠れた才能を劇的に描いています。

作品の成分的には、少年漫画的熱さ、展開のはやさ、若干のコメディ、服などのセンス、ファッションの知識、などが上げられるかな?

序盤で魅力的だった話は。雑誌編集者の地味系女の子が自身のファッションに諦めを持っいた所を、モデルショーでの千雪を見たときの心の救済を見たときに、ストーリー面でも面白いな!と感じました。育人や千雪といった当事者のポジション、それに直接的に影響されるファッション業界の人のポジション、それに加えて、ファッションに興味がない人達の目線やポジションを描くことで、視聴者、読者を引き込んでいます。

さて、私が注目したのは、ファッションを評価する際の構造と、言葉のセンスですね。
ファッション、と言っても私の中ではふわふわした概念ではあるのですが、都村育人が在するファッションの中における服飾において、
服飾の技術という物が、服を評価する際に評価基準になっている事。
これは一つの教養的な面白さがあり、技術として難しいか簡単かという、感性的な物を排除した評価基準であり実に面白い。
ファッションというと、自分の感性を重視するようなイメージがありましたが、デザイナーの要求するイメージの服を作るための技術、量産するための技術、そういった客観的な技術の基準が存在することがこの作品を見る上で面白い点です。

次に興味が湧いたのは、ファッション業界といっても、服を作る人、服を着る人等、様々な人が関わっているという教養のある作品であることですね。
それをさらに細分化すると、前者はデザイナーやパタンナー等、仕事がはっきりと分業化されており、業界の中身を知ることが出来ます。デザイナーは服のコンセプトに限らず、ファッションショーのコンセプトやストーリーを構築する。ファッション界は常に新しいコンセプトを求めており、それを提示するのがデザイナーの仕事の一部であることを描いている。知らなかったファッション業界のイメージが明確化されていく面白さがありますね。

先ほど述べた、服飾の技術、という基準に加えて、千雪の属するモデル業界の評価基準があります。
千雪が悩む身長について、確かにモデルにとって最低条件であったり大きなメリットであったりという点が描かれています。これは、モデルとは?という初歩的な理解を助ける意味合いも感じますし、業界の常識によるハンデがあってもその常識が覆るような逆転劇を描きたいというコンセプトも感じます。
その逆転劇のカギとなる、身長差を覆す評価基準とは?それは歩き方?服の理解?、コンセプトの提案?様々な客観的視点を用意してくれており、それも面白いのですが、この作品の少年漫画的面白さは、主観的視点、服を着ている時のメンタリティが重視されています。メンタリティによって、存在感が現れ、注目されることを描いていますね。

そして、上記の服飾、モデルの評価基準を、審査員が表現するときの言葉のチョイスが私は気になりましたね。もちろん、服の柄という物はパターンによって言葉が定義されている事が多いですが、それに加え、服のフォルムや、生地の質感、そういった物を的確に表す言葉選びに面白さを感じます。そして最終的に、服のコンセプトはどこか、技術的にどうかという評価をするために、服を理解する単語がハマる面白さ、効きなれない単語の新鮮味が面白いという事がありました。

さて、まとめますが、
この作品は、ファッション業界の客観的な評価基準やはっきりとした仕事内容を示してくれると同時に、その常識を打ち破る、主観的な精神的力のようなものでハンデを乗り越えていく面白さがあります。最後に端的に言ってしまえば、物語が熱い、ですね!
教養作品としての面白さと、熱さ有り、感動あり、ちょっと笑いありの少年漫画的な展開の面白さがうまく押し込められている作品だと思うので今注目の作品だと思います。

聲の形 感想

 

社会性のある感想ってあまり好きではないのですよね。

そういうわけで、これだけの量の文章を書いたにも関わらず、あまりこの感想は好きではないのですが…

そもそも、他者の感想に対してどうか?という事を書くことが、抵抗があるんですよ。この時、それをしてしまった、私の内面の攻撃性がでてしまったので深く反省いたしました。

そんな感想ではありますが、多々感想に対するメッセージを頂いたこともあり、ここに思い出として残しておこうかな、と思った次第であります。

聲の形 感想

どういう切り口で話したものかと、様々な視点で語られる近作品。
登場人物たちに感情移入するような作品でもあるし、聴覚障碍について知る作品でもあります。社会問題を語れる作品という向きもあります。

私もいろいろと感想を考えましたが、上記の3つの性質とアニメーションとしての感想の範疇にしか収まっていません。
そこで歯がゆさもあったのですが、上記の性質ごとに感想を残しておこうと思うに至りました。

まず、1次的な感想「感情移入」については、
石田の罪に対しては共感できるところがあったんですよね。いつ謝るんだ、許されるな、逃げるな、救われるなという視点はずっとありました。
高校時代の石田の視点は、自己への罪の視点です。西宮の視点は許しの視点。

こういった、視聴者が登場人物の誰かの立場に立てるような構造になっている事が、様々な視点での感想を生んでいるんだろうと。

それは、小学生時代の、クラスでの役、いじめっ子や、いじめられっ子、傍観者、加担者等の、どこかに当てはまる人物を出して、どこかに視聴者がはまるような構造にしています。そして人物それぞれが、罪悪感を感じていることを描くことで、重ね合わせた人物の罪が自身の罪への意識を刺激するから、良くも悪くも擁護的になったり批判的になったりするのでしょうね。
それは、西宮といういじめられっ子、という人間が感じている罪悪感に対して、否定或いは肯定によって自己を擁護・批判する感想や、石田といういじめっ子が抱いた罪悪感に対して、肯定・否定することによって自己を批判・擁護する感想など、役が持つ罪の意識に対して、視聴者自身が持つ罪への意識や理解によって、様々な感想が生まれるんでしょうね。
かつ、クラスの中での役というのは、小中高の中で大小有れど変化が3回あり、複数の役を演じた経験から、作品中の複数の役に共感するから、複雑に考えることができるのでしょう。


2次的な感想「聴覚障碍」で言えば、コミュニケーション方法の一つが失われることによる、意思疎通の遅延、人間関係への影響です。
聴覚障害によって起きる意思疎通の問題に対し、様々なアプローチの提供、例えば、ノートに書く、手話を話す、表情で伝える。それらアプローチに対する結果の提示。結果は、情報の伝達速度、習得の簡便さ、正確な伝達力など、様々な評価基準によって示されていきました。
そして、コミュニケーション方法の一つを持っていないという事荷よって起こる事象を、西宮がコミュニティから疎外されるという結果を示しました。ここでいうコミュニティは、聴覚を持っている小学生のクラスです。コミュニティの障碍の許容というのを考えるには、小学生が許容を知っているかという問題があることで、考える必要性をあまり感じません。
つまり、聴覚障害によってコミュニティへの参加へのハードルが上がっている事を知ることで、聴覚障碍者への理解が深まる作品だと思います。


3次的な感想は、人間関係の中でも社会と接続された、いじめという問題につながっていきます。ここからは、映像的に不快だと思ったものも、敵としての表現だったではなく、何故必要だったのかを理由を考えなければいけません。

この作品における小学生時代のいじめ問題から展開される、「誰が悪い論」は、視聴者を誘導する意図が感じられます。そこから得られる作品構造は、登場人物としては被害者、被疑者、共犯者、傍観者、部外者等であります。そこで行われる行為は、暴力行為、非難、謝罪、罪の擦り付け、罰の執行(私的制裁、リンチ)などです。
誰が悪い論において、行為のほとんどは相手への自分から行う行為であり、行為を受け取った側は相手を自身の解釈で理解します。「この人は自分が嫌いである」と。

そして、相手からのいじめ行為に敵意を感じない、この枠に収まらないような人物が「西宮」です。彼女の論理は「自分が悪い論」です。なぜ西宮がそういった性格になったかはわかりませんが、彼女は自身に対してコンプレックスがあり、友達の意味は自分を受け入れてくれるような素敵な存在であったわけです。それによって、石田たちから受けるいじめ行為に対して、理解しようとはしなかった。彼女が友達への理想を崩さなかったために起きた、相手への無理解。

しかしここに落とし穴が存在します。いじめられっ子となってしまった「西宮」の性格を考えないこと。いじめられっ子が全て西宮のような性格をしている、とは言えないことです。西宮の「自分が悪い論」を持っているような人間でもなく、友達という理想を抱いているわけでもない。そんな人が、西宮の事を理解せず、こんな人はいないと、西宮の存在を否定することこそ、人への理解をできない現れではないでしょうか。
それもこれも、作品中の登場人物ほどに、他者を理解するという事を、世間は考えていないのが原因だと思います。
西宮と意見者の境界があいまいである事、西宮の性格を理解するという、本作品のテーマかつ魅力の部分を丸ごと切り捨てた意見が発生するのも本作を考える上で興味深かったですね。

つまり、西宮の個性を理解することというテーマと、いじめというテーマから読み解けるのは、相手を理解することを考えるというメッセージが、この作品に込められているのだと思います。


最後にアニメーションとして、こういう風に見せるのは面白いな、と思った点に、雑感を書かせていただきます。

①目線、目の美しさ。
 冒頭のシーンで小学生の植野の目線(目の動き方)が印象的。
 京アニという事で言えばけいおん秋山澪の「don't Lady」を使用したEDの目線の細やかな動きに代表されるように、目線が非常に重要視される。
 また、ヴァイオレットエヴァーガーデンのように、繊細な目の光彩の描きは、京アニの武器であり、最近のアニメでも意識がある。
②顔にでっかくついた×マーク。
 ①で指摘した京アニの武器、目の美しさ、細かさをあえて隠すという、演出的だと感じた。
 周囲に×がついていないときは、石田視点ではなく、視聴者視点となる。視点の切り替えによって、感情の起伏を引き出している。

③登場人物の様々な目
 ①に書こうと思ったが、一応分ける。
 石田は三白眼、女性陣は京アニ特有の美しい目、島田は死んだ目、永束は何と言えばいいか、漫画的。
 そして印象的なのが、真柴。敵かと思うようなにやついた目。信用できない目。しかし、これが最大のポイント。島田もそう。
 死んだ目であろうがにやついた目であろうが、それは印象でしかない。
 作中の登場人物が真柴や石田をどう思っていたかはあまり語られないが、視聴者に信用できない印象や、心が死んでいるような印象を与えさせた。
 しかし実際のところ、真柴はそんな人を馬鹿にした人間でもなかったし、島田も心が死んでいたわけではなかった。
 目の描写によって人間性を描いてはいるが、それが全てではないという、パーツで見る事の不完全性があった。

④石田の目線、下向き
 石田視点でみた人物の脚の描写が多い。これは石田の塞ぎこんだ状況下での目線を示している。だから何だというわけでもないが、一応石田という人物の理解になる。

心理的距離の表現
 印象的なのは、飛び降り前の西宮、石田の花火を見る河川敷のシーン。
 この時の石田と西宮の、実際の距離以上に距離を感じる、心理的な距離の表現が描かれている。
 ほかにも、そのシーンの対比として近づいたりするシーンや、登場人物のパーソナルスペースの距離を感じる描写がいくつかある。
 人が理解している物かどうかによって、またはその人の元々持つ性格によって、パーソナルスペースはその距離が変わる。


⑥聴覚と視覚の関係 
 石田の耳の塞ぎこみ。耳をふさぐという表現について。高校生になっても周りの声が自分の悪口を言っているかもしれないという理由で耳をふさいだ。
 この時の周りの描写に注目した。描かれるのは口元であり、目線は描かれない。
 目線はもしあってしまったら、怖いのだ。自分の悪口を言っているかもしれない人の方向は怖くて見れない。聞き耳を立ててしまう。
 しかし、実際は石田と関係のない話を周りはしている。それに気づかないのは目を見ていない、視覚を使っていないからだ。
 つまり、石田が聞き耳を立てている事によって感じる被害妄想は、聴覚だけわかる物事の不完全さや受け手側の心の持ちようを示している。

⑦ アニメーションの嘘 
人が好意を示したりであったりとか、そういった微妙な表情は実際の顔だと受け取りにくい。
裏で何を考えているかわからないような顔もしばしば。
今作では目と目を合わせて西宮と石田が話す機会が多い。逆に目を合わせないときは本音を話していないという描写もある。
その中で表情から相手の好意を自然と読み取るということを意識的に映像で見せている。ここが嘘というか、誇張だ。意識的に強く表情が焼き付けられるように絵を作っている。
表情という視覚情報をコミュニケーションのアプローチとして提示していた。

⑧石田のリハビリ
石田の目線が下向きである事、耳をふさいでいる事は前述した。この行為の意味は視覚による表情情報と、聴覚による会話情報を得る事を拒否していることを意味している。
この事実から得られることは、彼の視点から見える×は、石田にとって情報を遮断している対象のマークであるという事だ。
ラストシーンで耳をふさぐことをやめた事からも、彼の心のケアが描かれている事は間違いない。

⑨聴覚の代替方法としての手話
 本作では手話によって会話が進行するシーンがある。
 石田がいちいち手話を言葉にするところがリアルでないという考えもあるが、手話を分からない視聴者を物語から置いてけぼりにしないために、やむを得なかった部分がある。
 手話を見せることによって発生するのは、手の描写である。
 手を移しつつ、顔を見せておかねばならない。顔の表情が重要だ。
 印象的なのは、西宮の母、基本無口に近いが怒るときはもっと無口である。
 無口でも状況や表情で怒りは伝わるのものであることがよくわかる。
 聴覚障碍である西宮とのコミュニケーションは手話であるが、実際のところ、表情によって手話に含まれる意味を補完している。
 アニメーションや漫画であるがゆえに、意識的に表情が強調されている。現実はもっとよくわからない顔の方が多い。
 公共放送の手話を見るとかなり表情豊かに表現している。
 西宮の顔の表現によって物語の進行を悟らせるシーンもある(告白の前、飛び降りなど)。

⑩それでも自分の声で伝えたい西宮
非常にショッキングなのは、西宮の声。
言葉を発するときに音程がばらばらであったり、言葉の伸びがおかしかったりする。

小学校の音楽の授業で歌わせるのは流石に配慮が足りなすぎるのではないのか。
西宮の告白シーン「好きです」が「月です」に聞こえてしまうのも難しい。
耳が聞こえないのに言葉で思いを伝えたいと思う西宮のその時の考えには非常に興味が湧く。なぜ、適切に伝えられる手話であったり、ノートであったりを使わなかったのか。割と私はサイコパスなのでわからない。わからないからこそ、難易度の高い方法で伝えようとした西宮が魅力的であると言い訳しておく。


まとめ
この作品でシビアでセンシティブな感想が沢山生まれてきたわけですが、人それぞれの過去の経験に基づく個性を引き出すような作品であった事、登場人物に感情移入をすることで深く強い感情を込めた感想が生まれる事。いじめ問題を通して人の理解することとその手法を考えさせる事、そのような意味で、私は非常に意義の深い作品だったと感じています。






【思考メモ】

いくつかの試行錯誤した感想の名残です。

【西宮を通してみた、他人への理解】
西宮視点から作品構造を見ると、西宮自身と他人があり、他人には友達というカテゴリがあります。ここで「誰が悪い論」と比較を考えながら、西宮と他人、友人の中でどういう行為が行われるかを考えます。西宮から他人へは、友達になりたいという努力行為(一方的な自分を理解してほしいという行為、後述する)、西宮から友達というのは、願望はありはすれども、何をすべきか、西宮自身もわかってはいません。(西宮には友達がいなかったため)
一方で、他人から西宮に行われる行為はどうでしょう。他人は「誰が悪い論」の世界のみからきていると仮定し、他人から受ける行為は被疑者によるいじめ行為だけに限定し、人の理解度、というパラメータを設定します。西宮は他人への理解度が低くても、人を信用している。そのため、相手がどんな人間か理解しなくとも、友達になろうとする。
小学生時代の石田などは、他人への理解度が低いと、信用していない。信用が低い相手(西宮)から優しくされたりすると、不信感により攻撃性が発現する。相手がどんな人間か理解しなくては、友達になれない。

そこから推定するに、他人から西宮に行われるいじめ行為は、反応を見たい理解をしようとする行為となる。
自分がやられて痛いと分かる、嫌だと思う言葉を投げつけるなど、自分の中で理解している感情を西宮の中に見つけるために行っている。彼らはアプローチに対する反応を待っており、暴力に対しては暴力を望んでいる。

つまり二次的なアプローチ論に戻るけど、いじめ行為が相手を理解するアプローチの一種として、子供たちは手法の倫理性を無視して暴走してしまうのかと考えてしまいましたね。

しかし、その暴力的アプローチは、西宮にとってどう映っていたか。
石田が自分で黒板に書いたひどい言葉を、黒板から消した行為に西宮は、ありがとうと書いたわけですから、ひどい物に対して酷いという感情を持っているわけです。暴力的アプローチによって、彼女の他人への理解はどうなったか?
世の中の人がこういう事をするひどい奴ら、ではなく、世の中の人に嫌われてしまっている自分という、他人に理解されない自分が嫌いだというのです。これが彼女の問題であり、自殺願望となる原因。(植野の西宮が私を理解してくれないという発言は、こういった文脈の中にあると考える)西宮にとって他人への理解はどうでもよく、自分を理解してくれる人が友達という、他人を見ていないという問題が浮き上がってきます。
しかし西宮の問題は、石田らが行ったいじめ行為の悪質さから増幅される、「誰が悪い論」で西宮は悪くないという考えに潰されがちなのですが、植野のセリフの文脈や西宮の自殺問題から考えるとどうしても作品が示しています。

【雑感的メモ~なぜ普通の学校に西宮を通わせたか?】
私が感じた疑問は、なぜ西宮は聲の高校に通わなかったか。という事。
西宮が普通の高校に通う事で、あまりに聴覚障害に理解のない子供たちと接しなければいけないこととなった。同じように聴覚障碍を持つ人の中で過ごせば、同じ悩みを持つ理解ある人々と出会ったはずである。片親である母親の経済状況なのだろうか?いずれにしても、この設定の謎は本筋を語るには必要のない謎だと思う。しかし、この転校がなければ、本作品の物語は始まってすらいない。

【メモ内での1次評価】
物語の評価としては
・石田と西宮は似た感情を持っていたという二重性。
・小学校の中で起きるいじめを扱い、登場人物に役割を与えたことによる、幅広い人々に受ける物語の没入感
・聴覚障碍を扱ったことによる意義

映像的な評価としては、
・登場人物の心理を表現する視点、表情、演出などのアニメーション。
・美しい表現をあえて隠す演出。
・映像のイメージで作られた情報を疑わせる問題提起。



【メモ】
作品構造を考える初期メモです。

・物語は小学生時代と高校生時代がある。
 小学校時代は最初の10分程度で、高校生時代における登場人物達の物語が主になる。
・小学校には、いじめられっ子(西宮硝子)といじめっ子(石田将也、およびその他クラスメイト)がいる。その他に傍観者(川井)がいる。
 後に高校生活に登場するクラスメイト達は、全員が自分が変われることを願っている。
 ここでいじめ問題に話題を持っていかれ、変わる必要があったのは誰かという話になってしまうことが多い。

・転校してきた西宮は聴覚障碍が理由でいじめられている。
 ここから聴覚障碍者についての話題に持っていかれることが多い。
 が、声と耳というコミュニケーション方法の問題となっている。
 
・西宮に対するいじめ発覚後、いじめっ子である石田はいじめられっ子になる。
 西宮が小学校を転校できたのは親の力によるものである。
  西宮のいじめ発覚と転校の時間にズレがあることが、西宮へのいじめ発覚が転校の直接的トリガーでないことを示す。(この時転校のトリガーを持つのは親である)
   石田がいじめられ始めた事に気づいた西宮が、自分のせいであると考えたために、母と妹に「死にたい」といったことが、母親に転校により環境を変える事を決断させたトリガーとなっている。
    西宮について、強烈な自己批判によって自殺願望が生まれている。
     強い自己批判性についてを、西宮が「ごめん」と伝えるたびに、植野は批判している。
      ラストシーンで植野が西宮の「ごめん」を理解することによって、西宮の自己批判性を個性として作品が落とし込んでいる。


・西宮が死にたくなった時に、妹は自身の素晴らしいと思った写真を家じゅうに張り付けている。
 しかし、西宮にとっては世界が美しいかどうかは問題ではなかったため、石田の交友関係の崩壊による二度目の自殺願望が発生してしまう。
    
・高校生になり、石田は周囲に対し塞ぎこむ。
  周囲が自分の事を批判しているという意識からである。
   これは世界が美しいかどうかではなく、自分が受け入れられない存在であるという意識が生まれたためである。
    西宮の自殺願望と動機が一致しており、石田も自殺をしようとしてしまう。
   西宮飛び降り時に石田は、全ての自分の特殊な行動を逃げと自己評価しており、自殺は逃げであるという事である。
    つまり、西宮の飛び降りをまた逃げであり、彼女には逃げたい罪悪感を感じるものが存在した。
     しかし、石田に助けられることによって、石田のこわれてしまった交友関係を再構築する方向に変わる。
      石田が死んでしまうと思わせる夢を見た西宮は思い出の橋に駆けていく。(身を案じるならなぜ病室ではなく橋なのか?)    

・石田は手話を習うために手話教室を訪ねようとしたところ、高校生の西宮と出会う。
 ここで石田からの友達になってほしいで涙を流す西宮。
  小学生時代に友達が欲しかったという願望が叶ったためである。
   石田が永束に打ち明ける友達とはという悩みからも、友達についての意識が向けられている。
    西宮の飛び降り、ひいては石田の交友関係崩壊への罪悪感は彼女の友達への意識が強い所から来ている。

・その後石田と西宮は交友関係を持つことになるが、植野によって心を乱された石田は、塞ぎこみによって友人を傷つけて、独りぼっちをえらんでしまう。  

言の葉の庭 感想

ジブリは絵から匂いや味が伝わってくることがありますよね。今回はそういう物を目指してみました。

作品評価的な感想は、無味無臭になりがちですが、文章によって色や匂い、温度を感じさせることを挑戦してみた文章です。

 

今回感想を書いた感想は「言の葉の庭」。

雨に惹かれる

日本には雨の呼び名が400以上もあるといいます。
時期によって、雨の強さによって、雨の形によって、雨を見る人のこころによって、
その雨の呼び名は生まれてきました。
梅雨、神立、秋雨、時雨。

また、文学の世界や漫画の世界に置いても、あめを形容する言葉が生まれてきました。
しとしと、ぱらぱら、ぽつぽつ、ざあざあ。

言葉を作ってきた人達も、私達と同じように、日常の中で雨を感じて雨の言葉が紡がれてきました。
ある人にとっては恵みの雨になることもあるし、外出する人にとっては、厄介な雨かもしれない。
雨を、目で見て、音を聞いて、匂いを嗅ぎ取って、肌で感じる。もしかしたら、雨を飲んで味わっちゃう人もいるかも。
私は、この作品を見ているとき、雨が降るとき、どんな雨かなと、見ていました。
そこに、私の中から自然と出てくる雨の名前。
あの梅雨の時期を思い出して、雨が降ったときは、空は雲に覆われ、少し湿気ばんで、土のにおいがして、雨が静かに降り落ちる、あの静寂への憧れが燻ります。


作品中で描かれる秋月君と雪野さんの出会いでもありいつもの場所は、湖や川が雨を受け止めて波紋を作って、雲の切れ間から木々に光が当たり、木々の隙間から草木の一部に光がさしてきらめいています。
わたしはそこから、私の中にあるその時感じた匂いや湿気を引き出してしまいます。

日常の中でふと雨をじっと雨を感じます。その時間に永遠を感じるように、静かに聞き入って、そんなふうに雨の魅力に取り憑かれてしまう。秋月君が「雨の世界」といったうように、いつものハレの日とは、時間の流れも、物を表す言葉も、感覚全てで感じるその場所の雰囲気も、世界が変わったよう。

秋月君が晴れの日よりも雨の日を願ったように、雪野さんが梅雨を終わって欲しくなかったと思うように、雨の世界に惹かれる五感の記憶を、この作品は引き出してくれます。